小田原の国道255号線沿いに『パエリ屋』というレストランがあった。カウンター10席だけの小屋のような店だった。「こんな場所でなぜ?」と不思議に思いながら、何度か足を運んだ。 一人前から頼めるパエリアはとてもおいしかったけど、店主は寡黙だし、狭いのでほかの客の前で「なぜ?」なんて聞ける雰囲気ではなかった。そして2年前、『パエリ屋』は閉店してしまった。 しかし今春、ふとしたキッカケで、『パエリ屋』が南足柄へ移転して、『スーリール』という店になったことを知った。地図を見たら、ほどほどに山の中。「こんな場所でなぜ?」は、今度の店にも当てはまりそうだった。


早速訪れてみると、小屋どころか豪邸のような建物がそびえていた。店内の巨大パノラマスクリーンのごときガラス窓からは、近くの茶畑、遠くの丹沢の山々が見えた。窓辺にゆったりと並べられたテーブル席が、何とも気持ちいい。 「前のお店はカウンターのお客さんから丸見えだったので、いつも緊張しながら調理していました」と笑うのは、オーナーシェフの保坂一行さん。はい、シェフの笑顔を、はじめて見たような気がします(笑)。

「ここではパエリアがメインというわけじゃないんですが、今でも人気メニューのひとつです」と保坂さん。若いころは都内でフレンチや洋食の経験を積んだ。独立時に閃いたのが、おいしい魚介の出汁をふんだんに使ったパエリアだった。
「東京のパエリアを食べ歩いたら、出汁の薄いところが多くて。濃厚なフュメ・ド・ポワソン(魚介の出汁)を使えば、しっかりした旨味のあるパエリアができると思ったんです」。保坂さんは、エビとカニ、タイの頭、野菜などでとった出汁と、タイだけでとった出汁を使い分ける。あらかじめ混ぜるのではなく、パエリア鍋を火にかけ、米をバターで炒めたあとで、その2種類の出汁を順番に加えていくのだ。

「タイの出汁はかなり強めなので、カニの香りが消えないように気を配りながら入れています」。パエリアといえばムール貝がお約束だが、「生のものは手に入りにくいし、高いわりにおいしいとは思わない」ので使わない。

「最も難しいのは、芯が残らないように炊き上げるところ。日本人は世界で一番、お米の炊き加減にうるさいですからね(笑)。アルデンテだと許してくれないし、かといってベチャッともさせたくない。あのパエリアの薄い鍋で、固くもやわらかくもない、ギリギリのラインを狙いながらつくっています」。


約20分後にできあがったパエリアは、お焦げだけでなく、アイオリソースのかかったエビが並んだ表面まで、パリパリに仕上げられていた。米を噛めば、まさにギリギリライン。火から下ろしてテーブルに運ぶ時間まで計算したような10点満点の着地だった。

パエリアを深く追求する姿勢は、ほかの料理に対しても変わらないので、当然のことながらオムレツもカルパッチョも若鶏ローストもおいしい。そして、美しい。海の近くから南足柄の山まで、そんなに頻繁には行けないのに、食べたい料理が多すぎて困る。だから質問ではなく、シェフへのクレームとして言っておきたい。「こんな場所でなぜ?」と。




南足柄市塚原3162-6 11:00~14:00(L.O.)/17:00~21:00(L.O.) *入店は20:00まで 月・火曜定休(祝日の月曜は営業) P10台
パエリア一人前1,500円、写真の二人前は2,900円(約20分かかります)。赤海老のカルパッチョ1,350円、蟹のオムレツ1,300円、ガーリックライスを詰めた国産若鶏のロースト1,400円、ランチ1,400円~、ディナーコース3,500円~