9月の北海道を皮切りに、
新蕎麦の収穫前線は、少しずつ南下する。
秦野の『手打そばくりはら』店主夫妻に、
蕎麦畑を見せてもらったのは、
可憐な白い花が迎えてくれた10月はじめのころ。
箱根連山を望む風光明媚な畑からは、
相模湾や大島まで見えたりして、
蕎麦の名産地は思ったよりも、海の近くだった。
そして11月から、
秦野はいよいよ新蕎麦の季節を迎える。
米や麦が作れないような寒冷地や痩せた土地でも育つのが蕎麦、という説は昔から知っていたが、《蕎麦の名産地には、たばこの名産地だったところが多い》という話は、今回はじめて知った。教えてくれたのは、秦野市渋沢で『手打ちそばくりはら』を営む栗原孝司さん。
秦野では江戸時代から《秦野葉》と呼ばれる葉たばこ栽培が盛んで、茨城の《水府葉》、鹿児島の《国分葉》と共に、かつては日本三大銘葉に数えられていたそうな。そして、葉たばこのオフシーズンに、連作障害を防ぐための輪作用の作物のひとつとして、同じ畑で育てられていたのが蕎麦だったという。 秦野は毎年9月になると『秦野たばこ祭』という盛大なイベントをやっているが、葉たばこの栽培自体は1984年に終わっている。しかし、葉たばこ農家の多くが、引き続き蕎麦を作ったことから、日本三大銘葉の産地である茨城県常陸太田市、鹿児島県霧島市、そして秦野市などは、いずれも蕎麦の名産地に生まれ変わることができた、ということらしい。なるほど、秦野に蕎麦屋の多い理由が、よくわかった。

『くりはら』は、祖父母の暮らしていた古い日本家屋を孝司さんが2年かけてリノベーションし、1986年に開店。もともと陶芸をやっていたので自分の焼いた器も使いながら、手打ちの十割蕎麦を出している。蕎麦の実を手挽きするための御影石製の石臼や、自家製醤油を搾るための道具もハンドメイド、《自分で作れるものはなるべく自分で作る》主義なので、20年近く前から地元の畑で蕎麦や野菜を育てているのも、ごく自然な流れなのだろう。

「現在の蕎麦畑は2ヶ所に分かれているんですが、基本的にぼくら夫婦と友人でやっているので、全部合わせても1.2反くらい。群馬の在来種を栽培しています」。
蕎麦の生育は早く、種を蒔いてから75日ほどで収穫できる。孝司さんたちの場合は、8月下旬に種を蒔いて、11月上旬に刈り入れ。妻の朋子さんは「カマで手刈りした蕎麦を天日と風でよく乾燥させることが大事で、ゆっくり追熟させると、蕎麦の香りがとてもよくなりますね」と語る。
畑3反からとれる蕎麦は、およそ100キロ。店で毎日出したら、1ヶ月持たないような量だ。それならもちろん今後は、畑を広げ、収穫量を増やし、いつか自分の蕎麦だけを食べてもらえるような店を目指すんですよね、なんて情熱大陸的な展開を勝手に思い描いていたのだが、孝司さんの答えはノーだった。
「自分で育てた蕎麦は思い入れもあるから、やはり特別な味がしますよ。でも、北海道から九州まで、日本各地に素晴らしい蕎麦農家さんがいるので、お客さんには、いろいろな蕎麦を食べていただきたいんです」。
マイ蕎麦はスペシャルだけどベストではない、ということか。しかし、その《特別な味》は、生みの親であるふたりによると、「体の中にスーッと入ってから力強いエネルギーを感じるような味」なのだと言う。うーん、やっぱり食べてみたいな。もうすぐ、この白い花たちが、蕎麦になったころに。

「蕎麦は挽き立て、打ち立て、茄で立てに限ると言われていますよね。ぼくも打ち立ての蕎麦の風味が好きだから、水と合わせてすぐの蕎麦掻きのような状態で出したい。それがいちばん蕎麦の香りを楽しめると思うので。朝仕込む量は控えめにしておいて、もし蕎麦がなくなったら、お客さんに、15分ほど待ってください、打ち立てをお出ししますから、とお伝えしているんですよ」。

蕎麦の実は、福井、新潟、富山、栃木、長野など全国の産地から仕入れ、専用の冷蔵庫で保存。毎朝、その日使う分として5キロ前後を製粉している。もちろん、自分たちで育てた蕎麦を使うことも。十割蕎麦を打つ水は、丹沢山中に湧く名水のひとつ『護摩屋敷』の水を汲んできて使っている。蕎麦を挽く石臼は2種類。電動式の石臼で挽いた『せいろ』は喉越しと香り、手で石臼を回した『手碾きざる』は、強いコシとコクのある味わいが特徴だ。
「蕎麦の実は種ですから、そのまま土にまけば芽が出るわけです。でも、ぼくは石臼で挽くことで、その命を奪ってしまっている。それを無駄にしないためにも、おいしい蕎麦を作って、食べる方の活力になってくれたらいいな、って思っています」。

むむむ。そういえば『くりはら』好きと話していると、「あの蕎麦を口にすると何だか元気になりますよね!」みたいなことを言う方が少なくない。蕎麦に込められた作り手の思いは、茄でられても、冷やされても、ちゃんと届いているようだ。
さて、秋になると『くりはら』へ行く回数が増えるのは、『胡桃汁せいろ』と『あしながきのこそば』が品書きに加わるから。どちらも自然豊かな秦野らしい蕎麦なのである。
『胡桃汁せいろ』は、店のスタッフが家の鬼胡桃を収穫して実を取り出しているという地元度満点の一品。「甘くするところもありますが、うちは何も足しません」という胡桃汁は、本当にすり潰した鬼胡桃を蕎麦つゆに加えただけなのだが、蕎麦に絡ませて頬張った瞬間、その香ばしく濃厚な風味に、うっとり。


そして、秦野のソウルフードと言うべき存在が、『あしながきのこそば』だ。この天然きのこの収穫シーズンは、9月下旬からはじまる。今年は時期が後ろにズレたが、基本的には『田んぼの畔の彼岸花が咲く→金木犀が咲く→雨が降る→山にあしながきのこが出現する』という流れ。

収穫してきたきのこを《毒消しのため》に《ナス》と炒めてから出汁と合わせて温かい蕎麦に仕立てるのが伝統的な食べ方で、大晦日まで冷凍しておいて、年越しそばに食べる家庭も多いという。『くりはら』で食べる十割蕎麦を使った郷土蕎麦は、また格別な味わいだ。

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手打ちそば くりはら
秦野市渋沢2098 営業時間 水~日曜11:30~15:00、夜は土曜のみ営業17:30~20:00(前日までの予約制) 月・火曜定休(祝日の場合は営業) 《テイクアウト情報はこちらでご確認ください》 https://www.facebook.com/sobakurihara/
胡桃汁せいろ1,200円、あしながきのこそば1,600円、ソバ掻き900円 *営業時間や料金、定休日などは変わっていることもあります。