具材は豚挽き肉、豆腐、長ネギ、ニンニク。調味料は唐辛子、豆板醤、甜麺醤、豆鼓、醤油、胡椒、花椒、そして鶏ガラスープ、紹興酒、サラダ油、片栗粉。ぼくが家で麻婆豆腐を食べるときは、そんな食材を使って陳麻婆豆腐を作る。子どもは「辛いし舌がしびれる~」と言って、すぐにギブアップしてしまうが、甘ったるいインスタント麻婆豆腐を食べるよりは、ひとくちでもいいから本物っぽいものを食べてくれた方がうれしい。
もっとおいしい麻婆豆腐を作れるようになりたいので、今もさまざまなレシピを参考に試行錯誤している。実は、最終的に目指しているゴールは、小田原『森羅』のような味。昔から、ここの麻婆豆腐をたまらなく食べたくなることがあり、そんな時は欲望のままに小田原へ車を走らせることにしている。
そのスパイスの香りは目が覚めるほど鮮やか、味わいは複雑かつ立体的で、プルンとした豆腐を頬張る度にじわりじわりと旨味が押し寄せてきて……我が家の麻婆豆腐と似ているのは方向性のみ、味の差はいまだになかなか縮まらず。アマチュアとプロの間にそんな高い壁があるからこそお金を支払って外食する意味がある、と思わせてくれるのが、『森羅』の麻婆豆腐なのである。

さて。陳麻婆豆腐は、1800年代後半に、中国の四川省成都市で食堂を営んでいた陳劉氏という女性が作りはじめたと言われている。1970年代に、それをやさしい味にアレンジし、テレビなどで麻婆豆腐として紹介したのが、日本における中国料理の草分け的存在『四川飯店』の陳健民氏だった。『森羅』のオーナーシェフ鈴木一弘さんは、1978年から修業しはじめた『赤坂四川飯店』で、麻婆豆腐をはじめて口にしたそうだ。
「陳健民さんが作ってくれたんですが、おいしい料理を食べて泣いたのは、その時が最初で最後です。本当においしくておいしくて、涙が止まりませんでした」。
それから16年後、鈴木さんは小田原に『森羅』を開店。麻婆豆腐という思い出のメニューは、そのまま店の看板メニューとなった。
「麻婆豆腐をはじめ、四川料理の味を決める大事な調味料はラー油。うちでは餃子用、担々麺用、調理用と、3種類のラー油を手作りしています。例えば、担々麺用は唐辛子とニッキ、八角、花椒、陳皮など8種類のスパイスで。調理用の場合は20種類くらい使っていますね」。
3種類のラー油を用意しているだけでも驚いたのに、スパイス20種類とは。個性派揃いの多国籍スパイス集団をバランスよくまとめ上げるセンスは、オーケストラの指揮者とかにも通じるものがあるような気がする。やっぱり、すぐれた料理人はアーティストなんだな、としみじみ。

「花椒のしびれるような《麻》と、唐辛子的な《辣》が、四川料理の特徴的な辛味。店で使っている《麻》の花椒は、四川省で高地栽培されたものだけです。《辣》は唐辛子を揚げたり、炒ったりすることで、それぞれの料理に合った香りの《辣》を作り出して使い分けるようにしています。そして、麻婆豆腐に絶対欠かせないのが、2種類の豆板醤。一般的な紅豆板醤と、何年も熟成させてマイルドになった郫県豆板醤を両方使うことで、香りや旨味に深みが出るんです。うちの麻婆豆腐には塩や醤油を加えていないので、塩味を決めるのも、豆板醤の役目です」。
《美味しい物より感動する物を作りたい》と書かれた『森羅』の分厚いメニューを開くと、麻婆豆腐のところに真っ赤な唐辛子マークが付いている。しかし、意外に激辛ではない。「ぼくの好みなんですが、麻婆豆腐は適度に辛くて、適度にしびれるのがおいしいと思うんです。もっとビリビリ辛いのが食べたい方は、裏メニューの陳麻婆豆腐を注文してみてください。四川で学んできた、本場そのままの味を楽しんでいただけますから」。

最後に、今までずっと気になっていた、麻婆豆腐のまわりにしみ出ている赤い油のことを聞いてみた。麻婆豆腐をごはんにかけて食べるのが大好きで、最後の、つまり二杯目か三杯目のごはんには、皿に残った赤い油を全部さらってかけてしまうのだけど、四川料理的にそれは正しいことなのか、と。 鈴木さんは、「そんなことはじめて聞かれました」と、笑いながら教えてくれた。
「麻婆豆腐は香りの料理ですから、作り手としては油に移った香りまで、全部味わってほしいと思っています。そこまで食べ尽くしていただけると料理人冥利につきますね」。
よかった。ほらね。これで次回からは、あの人はあんなことするから太るんだよ的な周囲の視線にめげることなく、これはシェフのお墨付きをいただいた正しいシメごはんなのだよ的なドヤ顔で、堂々と食べることができる。ビバ赤い油ごはん。

森羅 小田原市本町2丁目14-16 営業時間11:30~14:00 (L.O.) /17:00~22:00 (L.O.) 火曜定休 P6台
『麻婆豆腐』1,200円、『陳麻婆豆腐』1,300円(裏メニュー)、『麻婆豆腐ランチ』850円(ライス、スープ、ザーサイ&ネギ味噌、コーヒー付)、『餃子』200円(ランチ注文の方のみ)
*営業時間や料金、定休日などは変わっていることもあります。